ぺトラと死海② 待望のぺトラ
 朝8時バスでホテルを出発、移動距離は20分足らず。 今日のバスの稼働時間は、往復でも1時間を大きく下回る。 その分、自分の2本の足の稼働率は高い。


f0066555_137104.jpg ぺトラ遺跡というと、両側から岩の迫った狭い道が続くというイメージだったが、ビジターセンターから入ったしばらくは、こうした広々とした道が続く。

 私たちの前方右手に、ジンブロックスと呼ばれる大きなサイコロ状の岩が見えて来る。



f0066555_1331121.jpg その反対側にはオベリスクの墓が見える。

 このあたりには、岩をくりぬいて作られた小さな穴がいくつもあり、それらはすべて墓だという。

 1812年に再発見されるまで、少数のベドウィンと呼ばれる人たちが住み着いていたのは、そうした祠だったのだろうか?


 住んでいた住民たちは、近くの町に移住させられたが、現在のぺトラ遺跡の中で、みやげ物を売り、馬やロバに観光客を乗せるなどの商売が許されているのは、その末裔のみだといわれる。



f0066555_14182870.jpg シーク

 ようやく両側に岩の迫った細い道に入る。 どうしても「ここからがぺトラ」という気になる。

 シークに入った先は見た目にもはっきり分かる下り坂。

 木も草もほとんどない岩だらけの地では、雨が降れば鉄砲水となって押し寄せる。
 そのためシークの手前にダムが築かれ、水はシークの外側へと迂回させられる。

 行く手の少し狭くなった部分にアーチ型の門も築かれており、1812年の発見以後の絵画にも描かれているが、その後の地震により崩れてしまっている。



f0066555_1439343.jpg 給水システム

 リトルぺトラで予習したように、飲料水の確保は重要。
 シークに沿ってこのような溝が設けられている。

 このようにむき出しでなく、水道管(素焼きのパイプ)も残されており、その薄さに技術の高さがうかがわれた。



f0066555_15122822.jpg シークは1.6Km続く。
 道幅は狭いところでは4mくらい。

 昨日のガイドによる予習では、ローマなどの攻撃を受けたナバティア人たちは、ぺトラにあるお墓から遺体を移し、そこに隠れ住んだという。

 当時はぺトラに入る3つある道の一つしか知られておらず、その道はこのシークを通るため、高い所からの待ち伏せを受け、侵入が難しかったという。



f0066555_15251645.jpg 隊商のレリーフ

 シークの中にはいろいろな彫刻があるが、これは2人の商人と2匹のラクダといわれる。
 かなり崩れてしまっているが、1人の下半身とラクダの前足が分かる。
 ぺトラ一帯は砂岩でできており、彫りやすいが水の浸食で崩れやすくもある。

 別の場所で、水路の上によじ登り記念写真を撮っている観光客を見かけ、「遺跡が壊れてしまう。ガイドが注意しなければいけない」と私たちのガイドは不機嫌。



f0066555_1537821.jpg 昨日予習済みの神様

 昨日見たものより、作り方が立派。
 さらに通路の反対側に2人分の窪みが設けられている。 そこで口笛・拍手などの敬意を示すという。
 さらにさらに、通る人が「ちゃんと敬意を示しているか?」と見張る場所もあったという。



f0066555_16574791.jpg シークの隙間から現れるエル・カズネ

 テレビなどの映像で何度も見た憧れのシーン。

 いつ果てるともなく続く長いだらだらとしたシークの道。
 うんざりというのではなく、周囲の高い壁、それに彫られた彫刻の数々、石畳の残る道…
 それらに気を取られているうちに、ガイドの「前を見てください」との声に歓声が上がる。



f0066555_17125915.jpg エル・カズネ(宝物殿)全景

 宝物殿と呼ばれるのには、エジプトのファラオの宝物庫だったという説と、盗賊の宝が高いところにある壷に隠されていたと説とがある。

 第2の説のために、壷にはそれを撃ち落そうとした数々の銃痕がある。

 私たちの立つエル・カズネ前の広場は、当時は何mも低くなっていた。
 ぺトラがローマの属州となってから、馬車が往来できるように埋め立てられたという。

 その証拠というのだろうか。 エルカズネの左右に(現在は地下になっている)墓がある。

 ぺトラは現在も発掘が続けられており、発掘を終えたのはまだ1%に過ぎないそうだ。
 残り99%にどんな発見があり、どんな謎が残されるのだろうか。


f0066555_1747443.jpg シークを抜けると再び墳墓群

f0066555_17525639.jpg 右の大きなものから、左の蜂の巣のような小さな穴が無数に開いたものも。

 確認しなかったが、もしかすると後に住み着いたベドウィン人により、アパート状に加工されたのかもしれない。



f0066555_185313.jpg ローマ劇場跡

 出かけてくる前には、存在することすら知らなかった施設の一つ。
 ローマに征服される前の神殿にも、ギリシャの影響が見えることだし、あって不思議はない。
 これで、たしか2000名収容と言っていた。



f0066555_18173055.jpg 王家の墓

 ローマ劇場の反対側の岩壁に刻まれた4つの墓をまとめて、「王家の墓」と呼ばれている。

 写真は小さくてわかりにくいが、左から「宮殿の墓」、「コリント様式の墓」、「シルクの墓」と呼ばれている。
 写っていないが、この右に「アーンの墓」がある。

 ここから先は開けた場所なので、岩壁の墓はどこからも良く見え、帰り道の目印になる。



f0066555_19103116.jpg 列柱通り

 通路の左側には壊れた柱の残骸が残されている。
 写真に写る説明板によると、それは屋根付のアーケードになっている。
 ガイドの説明では、商店が軒を並べていたという。

 ここはシークとは別のメインストリートのようで、この一番奥には「凱旋門」があり、その左にはカスル・ビル・アントと呼ばれる神殿が並ぶ。

 シークの手前で迂回させられた流れは、このあたりで人の流れに合流する。
 写真より手前には、ニンファエウムという噴水を持った遺跡まであった。



 この先にレストランがありそこで昼食をとり、午前中の疲れを癒し、この先へ英気を養う。
 実は滞在期間があっという間の中で、ここでの食事が一番おいしかった。

 ここから先は険しい山道に入る。 私たちのガイドはけっこうなお年なので、この先は自由行動で。
 と言ってもツアー客9名全員が最後まで登りきった。 足に不安があるお一人だけが、ロバに乗ってだったが。



f0066555_20582951.jpg エド・ディル(修道院)

 息を切らせながら、やっとここまで登りきった。

 一時期修道院として使われたことがあるため、このように呼ばれるが、もともとはナバティア人の王を讃える神殿だった。

 実はエル・カズネ(宝物殿)より大きいが、広い空間にあるためそうは感じない。
 また、未完成の建物ともいわれる。
 そういわれてみると、装飾もシンプル。 中央の入り口こそ中に部屋らしい空間があるが、左右の2つの入り口からは奥がふさがっている。



 エル・カズネで受けた説明では、こうした「建物」では上から下へと彫られていくと言う。
 岩からこうした神殿などを刻み出すには、その方が合理的なのだろう。
 「下の方で寸詰まりならないか?」という心配をしなくても良いくらいの技術を持ち合わせていたのだろう。



 帰り道はほとんど同じコースを、少しだけ寄り道をしながら戻る。
 何年か後には、遺跡内は帰りをシャトルバスを運行させる片道コースに変わるそうだ。
 歩くだけとはいえ、シーズンには1日2000人もの観光客が押し寄せる。 それによる遺跡の痛みを防止するためだ。

 帰り道で、ガイドの説明をちょっとだけ復習できる今のうちに出かけられたのはラッキーだったのだろう。

 その分足は、帰り道の途中から痛くなったが。
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by t_ichib | 2012-03-31 23:58 | 今日もまた旅の空
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